どんとうぉーりーびーはっぴー

猫への情熱で生きてます

セックスってなんだ

よくわからないが、本日は性との付き合いについて考える1日であった(なんでやねん。)  

今日、例の自分に告白してきた南米男子について、共通の友達とたまたま話す機会があり、「あいつ、一緒にクラブにいて私がめっちゃ酔っ払ってたときふっつーにセックス誘ってきたし、誰にでもそうやって声かけるタイプみたいだから印象良くないわ」とのコメントを頂き、あっそれ彼との話の感じからして知ってたけどいざ耳にすると来るものがある〜ゥ〜!になってしまった。

クラブで行きずりの女とセックスする男、何が悪いのか。

多分何も悪くはない。同じく行きずりでやりたい女に声をかけていたなら楽しく一晩やっておわり。そうじゃない女に声をかけてしまったのは彼の不運か。

 

あとさっきドイツの売春宿についてのドキュメンタリーを見た。虚無になった。私自身、水商売業界と死ぬほど縁がないのでまあ良き学びではあったかも。

 

これらの件についてどうもモヤモヤが晴れないのはセックスと恋愛とはそうも可分でいられるのかという問いだ。

 

恐らく答えははっきりしている。不可分と考える(もしくは考えたい)人と可分と考える人がいる、それだけの話だ。前述の南米男子も売春婦たちとその客も割り切れる人。私自身多分そっち側。

 

だが、「好きな人とじゃないとセックスしない」と言う人のほうが世間的な印象は間違いなく良い。何故?いや、ほんと何故だろう。良い機会なので考えてみる。

第一に、セックスとは本来子供をつくるための高潔な(???)営みであり、動物としての人間に不可欠なもの。 生物学的には、種の保存としての本能、繁殖行動を促進するためか、セックスには快楽が伴うとされる。

 

第二に、快楽が伴うため、できるだけたくさんやりたいと思う者(まあ男のほうがその傾向が圧倒的に強い)が多い。だからネット上はエロ漫画エロ動画エロ小説なんでもござれ状態であり、その中からは男の「セックスの機会があったらラッキー!」との考えが読み取れる。

いや、もうこの第二の時点でわりとはっきりしていることがある。オスには多かれ少なかれあわよくばセックスしたいという考えが常にあるらしい。

 

まあ一応第三。セックスの快楽が他のものによって得られるものとは一線を画しており、かつそこまで持っていく過程がそう安易でない場合が多いため、その価値は高く、より多い機会を持つものはそうでないものの羨望の的となる。男性内でのみの話のような気がするが。

 

私は今混乱している。もちろん考えは十人十色だが、まあ一般的な考えとして、女性はヤリチンを嫌うし、男性はヤリマンを嫌う。逆は?女性はヤリマンをはしたないと思うことが多いが、男性内ではどうだろう。羨ましいと思う人もいれば、節操がないと批難するものもいるんだろうか。

そのへんはジェンダー的な話になってしまうのでここでは置いておく。

 

まあとにかく、多くの男性の中で「あわよくばセックスしたい欲」があることは間違いない。ジェンダーや文化の問題もあり、男性ほど主張することが一般でなくとも、女性の中にも一般に男性ほどではないがある。

 

さて、ある男と女がセックスする条件というのは大きく分ければ2つあると思っている。カップル関係にあるかないか、すなわち行きずりやセフレか。

これらの違いというのは要は恋愛感情のあるなしという一点でないかと思う。

 

恋愛ってなんだ。

ある人を好きになることだ。その人と一緒にいて幸せだと感じることだ。あわよくばキスもしたいし抱きしめたいしセックスもしたいのかもしれない。

つまり過程を踏むことで成立しうるある個人同士の関係であり、セックスはあくまで関係を深める行動の一環(であるはずだ)。

 

世間では恋愛の末にセックスをすることが良いとされており、そうでないセックスはそれをどうも快楽を満たすためだけの道具と見なしているようだからか良くは思われない。それを楽しんている人自体は多いのだろうが。

 

なんでだ。(n回目くらい)

私は思うのである。恋愛ありきでないと認めない人々は理性を持った人間たりたいからそう言い、セフレや行きずりを受容するものは、ただ本能に従うことに抵抗を持たないだけなのではないかと。

 

 

セックスと恋愛の可分性、考えれば考えるほど要するに個人の価値観問題やんけになってくる。私はヤリチンやヤリマンだのどうでもいいですが、性病が怖いので彼らとセックスするのはちょっと御免被りたいです。 

 

でもなんか考えれば考えるほど、男に好意を向けられても、それが人間として好きでパートナーとして一緒にいたいと思われたからなのか、女、つまりセックスの対象として関心を抱かれてるのかわからないんじゃないかという気がしてくる。態度でわかるとか言うけどそれもいくらでも誤魔化せると思うし。誤魔化そうとするだけでそれはもう恋愛ってオチなんだろうか。ていうか、わかる必要も実はないのか。男自身よくわかってないのかもしれないし。

 

哲学になってきた。セックスって単語こんな連発したのはさすがに人生初だと思う。性に惑わされない人生がいいな(無理)

じゆうたりたい

我が家が人並み(なのか?)程度に拗れているので思うこと。

家族(とりわけきょうだい)というのは血縁関係があるのみの他人であること(まあ私は自分の人生を謳歌しているので、自分を産んだあとしっかり育ててくれた親には感謝の念しかないし、そういう一家に生まれたことは僥倖という自覚はあるけど)は間違いなと思ってるし、心配してるってツラで家族のことに口出しするのは違うと思っている。とはいえ無意識にやってしまうのが世の常。ムズカシイモノである。自分はされても聞き流せるけど、世の中そういうの聞き流せる人だけじゃないともわかってるし。

こんなことを言ってるから社会不適合者なのかもしれないけど、自分の人生は突き詰めれば自分のものだし、他人の意見は吟味したうえ容赦なく取捨選択していきたいと私はいつも思っている。他人は自分の人生の責任はとってくれないもんね。

 

はやく仙人になりたいものである。(秘技・論点ずらしの術)

気づいたら5日更新してなかったな

時間が経つのは早いもので安易に5日ブログを放置していた。こういう風にして気づいたら1ヶ月くらい更新しなくなったりするんだろうか。

 

何か最近面白いことがあるかというとそんなにないのだが、なんとなくドイツ語の作文がしたくなったのでします。

 

Zurzeit neige ich dazu, zu Hause zu bleiben und spreche nicht so viel mit anderen Menschen. Ich gehe aus, nur wenn ich zur Sprachschule oder ins Fitnessstudio gehe.

Das ist ja gar nicht gesund, es weiß ich schon. Aber ich habe jetzt einfach keine Lust dazu. 

Während der Zeit, die ich allein verbringe, denke ich gern an vielen Sachen.

 

Seit ich nach Deutschland gekommen bin, bin ich total sozial. Ich spreche gern mit anderen Menschen, es ist gar kein Problem, auffällig zu sein, ich drücke mich gern aus.  Im Gegensatz dazu war ich in Japan gar nicht. Deswegen habe ich gedacht, dass meine Persönlichkeit sich durch dem Aufenthalt in Deutschland allmählich verändert hat.

Teilweise stimmt es. Aber nicht ganz.

Warum? Weil man andere Persönlichkeit haben könnte, wenn man eine Fremdsprache spricht.

Wenn ich Japanisch spreche, bin ich "eine Japanerin". Wenn Deutsch, "eine Ausländerin, die in Deutschland wohnt und Deutsch beherrscht hat".

Was ist denn der Unterschied?

Ich glaube, dass ich noch freier sein kann, wenn ich mich als eine Ausländerin fühle.

Da ich in Japan geboren bin, habe ich große Einflüsse von Japanischer Kultur und meiner persönlichen Umgebung bekommen. 

Die eigene Sprache verstärkt diese Einflüsse meiner Ansicht nach. 

Besonders wurde die spezielle Kultur in Japan ausgeprägt, in der man nicht auffällig sein sollte und nicht seine eigene Meinung äußern sollte, um die Harmonie zu behalten. Es kann eine gute Erklärung sein, warum ich freier sein kann, wenn ich kein Japanisch spreche.

Wahrscheinlich kann dieses Gefühl nicht passieren, sofern man die Fremdsprache nicht ganz beherrscht hat.

 

Na ja, es ist einfach meine Gefühle.  Interessant 😃

 

長くなってしまった。言語は、ある個人が一つの国に生きる中で受ける文化の影響を強める効果があるので、外国語を一定以上極めると(目安として脳内にほぼ母国語を介さずスムーズに会話できるようになると)ちょっと違う人格ができてくるよね、って話を書いたに過ぎない。

 

眠いので寝ます。

よのなかにはいろんなやつがおるのだね

寝るとか言って思考がまとまらないので次の記事を書くまでありました。ここ2日頭から消えない印象的な話を語ります。

 

まさか当人もこんなところに自分のことを書かれているとは1ミリも思っていないと思うので申し訳なくないこともないが、とかく、とあるラテンアメリカ男子がなかなかの衝撃発言をしたので私は割と参っている。

 

彼は私に一度「俺、彼女いたことないんだ」と言った。私はその時かなり驚いた。彼は18歳だし、見てくれはいいし、雰囲気イケイケだし、女の子に物怖じするタイプにも全く見えなかったからである。

だが私にそんな嘘をついたところでなんの利もないので信じた。

 

さて。私はその時迷いなく思った。「こんなイケイケな見た目してて童貞の18歳があのラテンアメリカにいるのか〜参ったな(何が?)」

偏見オブザイヤーでしかないし、彼らに怒られそうだが、ラテンアメリカの男どもは早熟かつロマンチックな(あとセックス好きそうな)男達が多いというのは定説ではなかろうか。

 

まあそういうわけでその時は驚くのみで終わった。

さて一昨日、私は彼と(チャットで)長話をした。気づけば話の方向はド下ネタに進んでいた、というか有り体に言えばなんかセックスの話になった。

 

前述の通り彼は童貞だと信じ込んでいた私は、童貞の割になんか話ノリノリ…???と思って思わず本人にはっきり聞いてしまった。「お前童貞?」と。

彼は「いや?違うよ」と言った。

私、固まる。(彼女いたことないのに非童貞とか、こはいかに?)

彼、話し続ける。「初体験はひっどいもんだったなー。友達だったんだけど」

 

私はピュアピュアなので、「彼女いたことないのに非童貞」という状況を理解するのに多少時間がかかった。私の理解し得る範疇を超えていた。

聞いた感じ、恋愛というものに長らく興味がなく、でも性欲はバリバリあったので安易にセフレとやっていたようである。

 

いや、18歳でそれは嘘じゃん。になった。が、ここで問題が一つ。

実のところこんな会話になったのは、私に好意を抱いていた彼を私がはっきり振ることで、お互いにめちゃめちゃオープンになったからである。(冷静に考えて彼は鉄メンタル)

 

彼は私に告白(仮)したとき、「こんな気持ちになったの初めてなんだ」的なことを言った。

 

即ちヤツは恋愛感情抜きにやり散らかした(かどうかは知りません)末に、たまたま出会った外国人に惚れたらしい、という理屈な訳だが、いやほんとか?と思う私がいる。

外国人、処女っぽい(真偽は闇の中)、好みの顔、てラインだけでセフレ余裕じゃないっスか(違う?)。彼を疑いたくはないが、そういう思考になった。

ていうかそうじゃなくて、付き合ったとしても、肉体的快楽と恋愛感情とが分断されすぎている以上、恋人以外とセックスすることをあまり浮気と捉えなさそうなのでヤバイなと思ってしまった。価値観の不一致。

 

まあそうでなくても性格が合わなそうだなと思って断った訳だったんですけど、いやはやこの世には様々な人々がおるのだね。

彼が本当に好きになれる人を見つけて女遊びをやめられることを願っております。性病とか怖いもんね。

 

ねます。

れきしについて考えるの会

今日はドイツ語で東条英機のドキュメンタリーを観るなどしたので、それに関して思ったことをぽつりぽつりしたいと思う所存。

難しい話ではまったくないのだが。

 

私は自分が左に寄っている人間であることに自覚がある。そのうえで考えたことを述べなどしたい。

 

私は高校時代、選択教科の都合で日本史を習わなかったので、私の知識は中学までの日本史と自主的に学んだ歴史とで止まっている。

中学までで学んだ歴史の中で、第二次世界大戦といえば、なんだか日本は途中まで快進撃を遂げていたが途中から敗色が濃くなり、最後はアメリカの原爆で敗戦に終わった、とりわけ広島や沖縄は大きな被害を受けた、とかそんなものである。

もちろんそれは事実だ。

だが私が思うに、我々は犠牲となった国民サイドに傾き過ぎているというか、全体として日本という国がやった残虐な作戦やらなんやらについて学ぶ機会が足りていないのではないか。

 

歴史は極力客観的に学ばれるものでないといけない。だから残虐な行為だのなんだのではなく、ただあったことのみを描写する。

史記述はしかし自分の国に関しては主観的になりがちなものであり(とりわけ我々こそ被害者と思いがちなもの)、それはいかなる国でも同じであろうから否定することはできないが、その我々日本の被害者となった他国のサイドでものを見ることも重要であると私は考える。

 

以前ポーランドのグダンスクにある第二次世界大戦博物館を訪れたとき、私はゾッとした。

というのも、私の中で太平洋戦争の歴史といえば、指導者に振り回された国民の悲哀。

だが博物館の中で取り上げられるのは、無論ドイツ・イタリアに足並みを揃えた全体主義サイドとしての日本。当たり前だ。我々が例えば第二次世界大戦下のドイツについて考えるとき、思いつくのはナチやヒトラーである。

当時の国民のことを真っ先に考えなどはしない。

 

私は日本の当時の思想や行いについては特にノーコメントとする。自分がそもそもその時代に生きていない以上、口出しはできない。大抵の物事には理由があるし、当時の人なりに理由があってそういう事態に陥ったのだろうと思う。

虐殺はどうあっても正当化されるものではないが、長い歴史において、領地の拡大の一環や敵対勢力との争いの中で様々な地で幾度となく行われてきたことであることに疑いはない。日本や他の全体主義政権、のちの共産主義国などだけが悪党と言うことはできない。

とはいえ人権が叫ばれだした時代に合った行為とは言えず、非難されるのも当然である。

 

とかく、我々は一部の国にとって相当な加害者であったことについて自覚が薄いように思う。とりわけ政治的無関心の時代にあって、それは深刻だ。

 

我々の先の戦争に関しての加害者意識の薄さがまた、加害者としての日本が引き起こした国際問題の解決を送らせている遠因のような気がしてならない。

 

自分の国の成した偉業だけでなくヘマも含め、我々はとかく歴史について必ず学ばねばならないし、その結果として今起きている国際問題は、それに至る迄の歴史を踏まえて解決策を模索せねばならないと再認識した今日この頃。

 

追記

今の時代で、歴史認識が原因で他の国に引け目や優越を感じたりする必要は1ミリもないし、私は日本人である以前に1人の人間だと思って生きてるし、それでいいと思うのである。あたりまえですわ。

だがしかし歴史問題を考える場においては、記録(日本のものだけでなく、対立している国家のものも必須)を把握した上で多角的な視点をもって対話しないとどうにもならんのではないかなと。既にそうかもしれないけどそうであってほしいけど。

 

対外的には、日本の中でいくら認識が別れてても日本は日本でしかないので。国内で認識が別れてるなんてこと他国は考慮してくれないし、多数・主流派=1つの国家の見解と取られることが多いだろうし。政治って複雑ですね。というかこの種の問題って多かれ少なかれあらゆる国にありそう。

眠いので寝ます

 

眉毛抜きについての長考

妙に暇があると、日常的に繰り返す動作に矢鱈と時間をかけ過ぎる。

化粧であったり、髪型いじりであったり。

 

私はとりわけ眉毛いじりに没頭するきらいがある。いじりというか、要らないと判断した箇所を抜きまくっている。

 

家族はそれを目にすると、将来目の皮膚が弛んでしまうだろうから良くない、と警告してくるのだが、それを聞くたび私の心に去来する思いといえば、「(心配してくれるのは有難いが)ほっとけ」の一言。

 

「将来〜するだろうからよくない」理論。

煙草や酒がやはり代表的なものであろうと思うが、様々な領域なおいてこの理論は幅を利かせている。

 

第一に、その理屈は将来の存在を前提として成立しているものである。それも恐らく相当先、少なくともたかだか20過ぎの私からすれば。

だがしかし一寸先は闇。誰も自分がいつ死ぬかなんて知る筈もない。自然災害?通り魔?交通事故?病気? 未来のことなど誰にもわからない。

また、例えば煙草。寿命を縮めるというのは確かにそうだろう。科学的に証明されているものね。一方で、長生きのヘビースモーカーなんていうのもごまんといる。つまり、誰にでも当てはまることではない。大半には当てはまるとしても。

 

そんなことに思いを巡らせていると、長期的に害を及ぼすかもしれないものの「かもしれない」について考え過ぎるのは馬鹿げてるんでないかと思ってしまう。

 

だがその「かもしれない」は自分より長く生きている者たちの忠告であり、無視し続けるのも賢くないなんてことも分かりきっていたりする。

 

かなり日常的な例を挙げるとすれば、ニキビ。安易に潰してしまいがちだが、インターネットでも書物でもまあ間違いなく誰もが潰すことに反対であるし、跡は大抵の場合残る。

現に今私はかつて潰し続けたことでできた跡を見てたびたび後悔している。

 

全ての「かもしれない」に従っていくのなんてバカらしいけれど、従わないと後悔することも少なくはない。

 

世の中の人は「かもしれない」の可能性の大小や定着の程度でそれらの忠告に従うかどうかを決めているんだろうか。

それとも、たまたま忠告を目にして、やめられるものはやめ、やめられないものはただやり続けるのだろうか。即ち、みな妥協のラインが違っているんだろうか。

たぶん大半の人が後者だろう。その妥協のラインもきっと矛盾だらけだ。

 

誰も彼も矛盾なしには生きられないし、私も無論、例外でない。

若輩者、人生を考えるの巻

ブログなどというものを運営するのは私にとって大変に久しぶりのことである。

 

オタクを拗らせアニメ、漫画、ゲームに没頭し、その情熱を絵描きに向け、その成果を展示する場としてのブログ、ひいてはホームページを開設、ときどき更新、たびたび放置した中学生の頃。

もうその頃から随分時が経ってしまった。

 

あの頃私の身体に満ち満ちていた情熱や行動力、好奇心はどうあがいてももう取り戻すことはできないように思う。

 

***

さて、あまりにもベタな発想ではあるが、自分はあの頃思い描いていた「未来の私」に近づけているのだろうかと考えてみる。

 

さて、中学時代の私の夢は「イラストレーターになること」であった。

今の私?

日本の大学に1年でギブアップし、遠い異国の地で再び大学を目指している。

ちなみに美術専攻志望というわけでもない。

 

中学時代の私はまた、「イラストレーターが駄目なら、保険として難関大学の大学生をやりながら同人誌を出そう」と思っていた。

私はとある名のある高校になんとか入りはしたが、志望大学には現役のころは届かず、浪人では、成績を大幅に伸ばしつつも2次試験で失敗した。そして第2希望の大学に進学した。その失敗を引きずり、それから目を逸らす為に入部したと言って過言でない体育会系の部活でも周りとうまく行かず、常に鬱々としていた。

もちろんその生活の中で同人誌を描く暇などなかった。そもそも長い受験勉強の中でアニメや漫画、ゲームへの情熱は息絶えてしまった。

 

結論から言ってしまえば、今の私の人生は、私が過去に思い描いていたものとは大きく違っている。

意味不明なくらい違っている。そもそも自分は少なくともマトモに大学くらいは卒業できるものと思い込んでいた。アニメへの情熱も永遠のものだと思っていた。

大学2年の春に思いつきで海外留学し、その国での生活に馴染み、様々な国からの留学生の友達と仲良くしていることなど、昔の自分からすれば、完全に想定外のことであろうと思う。

 

だけれど、今の自分はそんな自分であり、私は今の自分が案外嫌いではない。

 

受験に成功し、希望通りの大学でキャンパスライフを謳歌している者。受験に成功したが、大学生活が期待通りのものと異なりストレスを溜めている者。受験に失敗した挫折経験をまだ克服できていない者もいれば、その失敗をさして気に留めず楽しく大学生をやっている者もいる。

 

人生、恐らく思い通りにならないことのほうが多い。思い通りに行ってもそのことが未来の幸せを保証するとも限らない。

重要なのは恐らく、現在のありのまま自分を受け止め、その中で幸せを見つけていくことなのではないか。

人生経験の浅い若輩者としては、そんなことを考えつつ、目の前に広がる、未来という闇の中を手探りしながら歩いていくことしかできない今日この頃である。

 

あらゆる挫折経験を乗り越えられない者の未来に幸あらんことを。