どんとうぉーりーびーはっぴー

猫への情熱で生きてます

れきしについて考えるの会

今日はドイツ語で東条英機のドキュメンタリーを観るなどしたので、それに関して思ったことをぽつりぽつりしたいと思う所存。

難しい話ではまったくないのだが。

 

私は自分が左に寄っている人間であることに自覚がある。そのうえで考えたことを述べなどしたい。

 

私は高校時代、選択教科の都合で日本史を習わなかったので、私の知識は中学までの日本史と自主的に学んだ歴史とで止まっている。

中学までで学んだ歴史の中で、第二次世界大戦といえば、なんだか日本は途中まで快進撃を遂げていたが途中から敗色が濃くなり、最後はアメリカの原爆で敗戦に終わった、とりわけ広島や沖縄は大きな被害を受けた、とかそんなものである。

もちろんそれは事実だ。

だが私が思うに、我々は犠牲となった国民サイドに傾き過ぎているというか、全体として日本という国がやった残虐な作戦やらなんやらについて学ぶ機会が足りていないのではないか。

 

歴史は極力客観的に学ばれるものでないといけない。だから残虐な行為だのなんだのではなく、ただあったことのみを描写する。

史記述はしかし自分の国に関しては主観的になりがちなものであり(とりわけ我々こそ被害者と思いがちなもの)、それはいかなる国でも同じであろうから否定することはできないが、その我々日本の被害者となった他国のサイドでものを見ることも重要であると私は考える。

 

以前ポーランドのグダンスクにある第二次世界大戦博物館を訪れたとき、私はゾッとした。

というのも、私の中で太平洋戦争の歴史といえば、指導者に振り回された国民の悲哀。

だが博物館の中で取り上げられるのは、無論ドイツ・イタリアに足並みを揃えた全体主義サイドとしての日本。当たり前だ。我々が例えば第二次世界大戦下のドイツについて考えるとき、思いつくのはナチやヒトラーである。

当時の国民のことを真っ先に考えなどはしない。

 

私は日本の当時の思想や行いについては特にノーコメントとする。自分がそもそもその時代に生きていない以上、口出しはできない。大抵の物事には理由があるし、当時の人なりに理由があってそういう事態に陥ったのだろうと思う。

虐殺はどうあっても正当化されるものではないが、長い歴史において、領地の拡大の一環や敵対勢力との争いの中で様々な地で幾度となく行われてきたことであることに疑いはない。日本や他の全体主義政権、のちの共産主義国などだけが悪党と言うことはできない。

とはいえ人権が叫ばれだした時代に合った行為とは言えず、非難されるのも当然である。

 

とかく、我々は一部の国にとって相当な加害者であったことについて自覚が薄いように思う。とりわけ政治的無関心の時代にあって、それは深刻だ。

 

我々の先の戦争に関しての加害者意識の薄さがまた、加害者としての日本が引き起こした国際問題の解決を送らせている遠因のような気がしてならない。

 

自分の国の成した偉業だけでなくヘマも含め、我々はとかく歴史について必ず学ばねばならないし、その結果として今起きている国際問題は、それに至る迄の歴史を踏まえて解決策を模索せねばならないと再認識した今日この頃。

 

追記

今の時代で、歴史認識が原因で他の国に引け目や優越を感じたりする必要は1ミリもないし、私は日本人である以前に1人の人間だと思って生きてるし、それでいいと思うのである。あたりまえですわ。

だがしかし歴史問題を考える場においては、記録(日本のものだけでなく、対立している国家のものも必須)を把握した上で多角的な視点をもって対話しないとどうにもならんのではないかなと。既にそうかもしれないけどそうであってほしいけど。

 

対外的には、日本の中でいくら認識が別れてても日本は日本でしかないので。国内で認識が別れてるなんてこと他国は考慮してくれないし、多数・主流派=1つの国家の見解と取られることが多いだろうし。政治って複雑ですね。というかこの種の問題って多かれ少なかれあらゆる国にありそう。

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