眉毛抜きについての長考
妙に暇があると、日常的に繰り返す動作に矢鱈と時間をかけ過ぎる。
化粧であったり、髪型いじりであったり。
私はとりわけ眉毛いじりに没頭するきらいがある。いじりというか、要らないと判断した箇所を抜きまくっている。
家族はそれを目にすると、将来目の皮膚が弛んでしまうだろうから良くない、と警告してくるのだが、それを聞くたび私の心に去来する思いといえば、「(心配してくれるのは有難いが)ほっとけ」の一言。
「将来〜するだろうからよくない」理論。
煙草や酒がやはり代表的なものであろうと思うが、様々な領域なおいてこの理論は幅を利かせている。
第一に、その理屈は将来の存在を前提として成立しているものである。それも恐らく相当先、少なくともたかだか20過ぎの私からすれば。
だがしかし一寸先は闇。誰も自分がいつ死ぬかなんて知る筈もない。自然災害?通り魔?交通事故?病気? 未来のことなど誰にもわからない。
また、例えば煙草。寿命を縮めるというのは確かにそうだろう。科学的に証明されているものね。一方で、長生きのヘビースモーカーなんていうのもごまんといる。つまり、誰にでも当てはまることではない。大半には当てはまるとしても。
そんなことに思いを巡らせていると、長期的に害を及ぼすかもしれないものの「かもしれない」について考え過ぎるのは馬鹿げてるんでないかと思ってしまう。
だがその「かもしれない」は自分より長く生きている者たちの忠告であり、無視し続けるのも賢くないなんてことも分かりきっていたりする。
かなり日常的な例を挙げるとすれば、ニキビ。安易に潰してしまいがちだが、インターネットでも書物でもまあ間違いなく誰もが潰すことに反対であるし、跡は大抵の場合残る。
現に今私はかつて潰し続けたことでできた跡を見てたびたび後悔している。
全ての「かもしれない」に従っていくのなんてバカらしいけれど、従わないと後悔することも少なくはない。
世の中の人は「かもしれない」の可能性の大小や定着の程度でそれらの忠告に従うかどうかを決めているんだろうか。
それとも、たまたま忠告を目にして、やめられるものはやめ、やめられないものはただやり続けるのだろうか。即ち、みな妥協のラインが違っているんだろうか。
たぶん大半の人が後者だろう。その妥協のラインもきっと矛盾だらけだ。
誰も彼も矛盾なしには生きられないし、私も無論、例外でない。